カワサキ・モトクロスの夜明け
黎明期のモトクロス界をカワサキが席巻し始めた頃、マシンの象徴は赤タンクだった。当初は実用車をベースとしたレース仕様。1963年のMFJ大会に初参戦した社内チームが、1~6位を独占した快挙をきっかけに、モトクロッサーの市販化が始まる。徐々に赤タンク車のラインナップが増えると、モトクロスブームに沸く日本の各地で販売も上昇し、「赤タンクのカワサキ」と称されるようになった。
全日本モトクロス選手権がシリーズ開催されるようになると、カワサキファクトリーライダーの山本隆が、2クラスチャンピオン(1967年90/250、1968年250、1969年90)として君臨。後に4輪レーサーに転向する星野一義も、ダブルタイトル(1968年90/125)を獲得した。
上・左下:1963年に登場したカワサキ初のモトクロッサー、B8M。排気量は123.5cm3。ファクトリーマシンでは2気筒エンジン仕様なども存在した。
右下:1967年に発売された250ccクラスのモトクロッサー、F21M(写真は1968年モデル)。全日本モトクロス選手権では1967年、1968年と二連覇を飾った。
高まる開発機運~産声をあげたKX
赤タンク時代のマシン作りは、ライダーの要求に応じてエンジンのチューニングを行ったり、フレームに改造を施したりと、ハンドメイドの職人芸のようでもあった。
やがて国内外のユーザーから市販車の増産と性能向上を望む声が高まると、カワサキは本格的なファクトリーレース活動に注力するため、社内の組織を変更した。1972年4月、技術部に設けられた開発1班。ロードレーサーとモトクロッサーに特化した、最も先鋭的な部署だった。
そして開発からレースを経て市販車に至る一貫性が整い、KXの歴史が動き出した。「カワサキ究極のモトクロッサー」の意を込め名付けられたKXの設計コンセプトは極めてシンプル、「勝つためのマシン」。まずはプライオリティを世界グランプリに定め、開発ライダーとしてオーレ・ペテルソンと契約。ヨーロッパを拠点にした活動が進められる。KXが目指すカテゴリーは、125、250、500の3クラスに及んだ。
ヨーロッパで行われたテスト開発の様子。現地でフレームの溶接なども行い、ライダーのフィードバックを迅速に反映していった。
この頃アメリカでは、全米選手権が整備される前夜にあたり、Trans-AMA、Inter-AMAなど、ヨーロピアンを交えたポストシーズンのモトクロスが活況を呈していた。欧州車をはじめ他メーカーが幅を利かせる戦場に挑んだカワサキは、ブラッド・ラッキー(1972年AMA MX500)、ジミー・ワイナート(1974年AMA MX500/1976年AMA SX250)といった、アメリカ人チャンピオンを輩出した。
ファクトリーレース活動と並行して、1973年からKXの市販がスタートする。ブランドのプレゼンスを高めるため、マシンカラーはライムグリーンに一新。1969年のデイトナ200マイルでファクトリーマシンのA7RSとA1RASに採用されて以来、Fシリーズなどのモトクロッサーでも試されてきた色だ。当初はフューエルタンクのみに限られていたが、徐々にフェンダーやサイドカバーもライムグリーンとなり、KXのアイデンティティとして定着した。
KXは1973年から販売をスタート(左:KX250 右上:KX125)。以来、一年たりとも休まずKXシリーズの開発、販売は続けられている。
また、1975年モデルから車体に「KX」の名称が付くようになった(右下)。
急速な成長を遂げるKX
1970年代におけるKXの進化で最も顕著なのは、サスペンションである。1973年モデルのストロークは前:185mm/後:90mmしかなかったが、10年足らずで前後300mmを超え、車格も一回り二回りと大きくなっていった。サスペンション自体の進化にも、窒素ガスを封入したドカルボン式などの技術革新が反映されていった。
エンジンの吸入方式は、ロータリーディスクバルブからスリム化のためピストンバルブに変わり、さらにリード素材の向上を受けてピストンリードバルブが主流となった。排気側ではチャンバーがアップからダウンへ、そして再びアップへと変遷した。これには膨張室容積を稼ぐため下に回したところ、次第にグラウンドクリアランスが足りなくなって上に戻したという事情があった。アップチャンバーにはニーグリップ時に干渉するデメリットもあったが、設計時から緻密な取り回しを工夫することで問題は解消された。
この時代のトレンドとしては、アルミやマグネシウムを用いた徹底的な軽量化も挙げられる。カワサキに8年ぶりの全日本タイトル(1976年250)をもたらした竹沢正治のファクトリーマシン、KX250SRには、大柄なマシンを扱いやすく改造するため、軽量化に加えてリヤに17インチタイヤを採用していた。この小径化のアイデアは、後年デビューするデュアルパーパスモデル、KL250にも生かされることになる。
ピストンリードバルブ&アップチャンバーを採用した、1978年モデルのKX250。
初代モデルからわずか5年で、サスペンションストロークやグラウンドクリアランスもかなり大きくなったことが伺える。
「勝つためのマシン」という設計コンセプトは、KX50周年を迎えた今でも変わらない。頂点を目指す過程で研ぎ澄まされた技術は、モトクロッサーから派生した多くのカワサキ車に受け継がれている。